紀伊山地の霊場と参詣道
黒河道と雪池山、楊柳山周回
炉端山友会にて
2016/12/10

総時間
9時10分〜15時45分
行動はユックリと昼食40分立ち休憩のみ

県ハイキングで頂いた地図から消えた黒河村資料
2016/10/紀伊山地の霊場と参詣道に追加登録が決まった黒河道を炉端山友会で歩きました
黒河道は橋本市から続きますが、黒河道の名にふさわしい部分、久保小学校から世界遺産黒河道、雪池山、子継峠、楊柳山、生活道としての黒河道を、廃村の平村、黒河村、仏村跡を見ながらの周回です。
久保小学校には、丹生川沿の河根から厳しい車道が続きます
冬場なら普通乗用車の乗り入れが難しい道です
行事ごとが無ければ小学校裏に4台程度駐車可能ですが、満車なら少し下の公民館下に10台程度の草地の広場があります
  
高野山の案内が有る石仏              取り付きです                     久保小学校
  
久保小学校上から山道に入りますが、状態の良い生活道です。
電話線がまだ生きています。
歩けば、小さな小屋風の建物が出ますが、ここはおめん茶屋跡で、石仏の弘法大使像と不動明王が祭られているが公開していない
この先から道は登り始め雪池山まで下りは無い
ルート的には歩き良いが、今日はイノシシが道を荒し歩きにくく一汗流した

坂道が険しくなり少し見晴が出ると斜面を注意していれば、小さな岩が出る
そこが大黒岩で弘法さんの足跡が有る。もちろん本物では無いのだろうが、一休み場として意味があるのだろう
  
一休みして登れば右手に踏み跡が尾根に登る
その上が豆腐屋敷跡で、水槽と五輪塔の残骸があり??と感じるが、更にその下100mに広い棚があり直径80cm??のヒキウスが転がっている。豆をすりつぶした物だろう
生活の跡のお茶碗が形のままうずもれていた。なんでも鑑定団に出せばお宝かも
  
ヒキウスの有る大地から金剛葛城が見張らせる
黒河道に引き返し登れば、雪池山と黒河道の分岐看板が出る
  
ここから黒河道は植林内のトラバース道だ。
子継峠手前から黒川峠(くろかわとうげ)経由で雪池山に行けるが、四等点の乗る尾根を直登して四等三角点を確定し尾根を登った
  
四等点 雪池山

雪池山下50mは傾斜があり一気に登れない私だが、今日の仲間は強い、駆け上がった。
山頂は見晴らしは無いが、それなりの雰囲気があり、古くは氷室が有ったとか
雪池山との別名に、銅山(くろがねやま)の別名を持つ
黒河村に銅山が有ったそうで今もその跡が有るそうだが、場所は知らない私だ
山頂から黒川峠に下る。
黒川峠は余り知られていない峠だが、女人道と雪池山の間の最鞍部だ。
黒河村(くろこ村)からひうら道と呼ばれる道が黒川峠に突き上げたいた(是非読んで下さい。私の知識はこの会の方たちから得た物です)
黒川峠から子継峠に下るが、これが道?という感じだ
 
黒河道との出会いに道標がある
子継峠に出て、女人道を楊柳山に向かう
  
女人道への登りは標高差60mの不ぞろい階段で零度の高野山でも一汗流した
  
楊柳山で昼食タイム、陽だまりはあったかかったが、曇れば寒くユックリ出来ない
慣例の集合写真は何時も楽しい炉端山友会だ。
黒河峠に出て、生活道として認識し世界遺産の登録から外れた生活道Kuroko道を下る。
生活道黒河道は、途中で杖ヶ薮や宿方面道に分岐する
先ず、植林が開けた所に地蔵祠が出る。
  

  
 
石仏には平村、浅右工門の字が刻まれ、平村の存在が確認できる。
ただ、このルートの地蔵は全て元の場所から移動された物と語り部から聞き及んでいる
伐採跡から雪池山が望め見晴らしはいいが、足元はゴロゴロだ
 
平村は高野山の建設に携わった先祖の村で5軒民家が存在したが、明治の廃仏毀釈で氏神様が無くなり、大正初めに住民も移住し、大正七年に無住になった

今も生活観が残り、石積み跡が残る集落跡だ。
今回見つけた硯やヒキウス、生活レベルも高かった村だろう
高野山と共に栄えた事が伺える
 
下れば林道にでる
この付近から、黒河村となり、黒河村は最大件数は12〜3軒が住んでいたようだが、昭和34年に無住になった
最後まで住まわれた語り部さんの家がまだ状態良く残っている
  
沢沿いから急に林道に出るところが、くろこ村の始まりで、仏川左岸に愛染寺跡がある
下れば、道横右手に立派な地蔵が出るが、この地蔵も山の途中から降ろされたものと聞き及んでいる
台座の案内が、まに(魔尼山)ようりゅう(楊柳山)と有りまるで方向が合わない

伐採され谷が明るくなる。
余り知られていないが、この付近から倉の尾峠越えで杖ヶ薮や西ヶ峰に行く道が有る
この山村の方や宿方面の方たちが出会って焚き火を囲んだのが、護摩の檀山頂という
木を出すゴンドラはすごかった
林道左手に地蔵が出る。これも山中から下ろされた物だが、ここから黒河村最後の住人の家が残る処に登り返した
 
家前には四等点が出来、家前の広場跡はこの家の作業場だったようだ
何を作っていたのか、巨大な釜が二つ野外に置かれ、ガラス越しに見れば家内には桶が幾つもある
二階は住居のようだ
  
五右衛門風呂が野外に置かれている
水も谷から豊かに引かれていたようだ
家の上30mには田の跡が有り広い。
又この家横を通り黒川峠まで古道が走り、最近測量されたようだ
林道に下り車道に出る。
この車道出合いに公園が有ったが今は草むらだ、ベンチや椅子が残っている
車道を久保小学校に登って行く途中に、あかがね山の由来の元、銅採掘の鋼洞があるというが私にはわからない
 
二つのKuroko道を周回してみた
古(いにしえ)の古道、人々の営みが感じられ、景色のハイキングもいいが、こんな古道歩きもマタマタ楽しいだろう

以前頂いた黒河村の資料を貼り付けておきます

今回世界遺産に登録された部分は、豊臣秀吉が、高野山で歌舞音曲を施行して、神の怒りに触れ、橋本まで馬で逃げ帰った道、太閤坂とも呼ばれます



集落については、非常に小さな物です
県から頂いた資料は以下です

右手に揚柳の枝を持ち、万民の病苦を救う観音様と信仰されている揚柳観音を奉る、標高1008メートルの「揚柳山」、
又高野の氷室で有ったと言われている、標高988メートルの「雪池山、(ゆきいけやま)」の山麓に位置し、揚柳山を水源とする佛谷川に沿い、
住民が点在していた。
黒河で一番低い佛谷は、近くの久保小学校の標高540メートルとほ同じ高さで、この地域に五軒有りました

これより上流に遡ると事約600メートルに黒河が有ります。ここが黒河村の中心で有ったようで、氏神の「八幡社」、檀那児の「愛染寺」や
阿弥陀堂が建っていました。家も多いときは八軒建っていたようです。
この地区までは自動車で行けます。奥の院まで三キロメートルともっとも奥地の平ら地区は、七.八十年前まで五軒有った家が全て早く移転したと言われるだけに、道は一人が通れる昔のままの道を、杖を頼りに急坂を登らなければ成りません。
この地域は江戸時代の初期に開発されたようで、平らの地名からその事を物語っています
平家の落ち武者の伝説は信じる事は出来ないでしょう。平ら地区は標高750メートル佛谷から1.5キロメートル、標高差が実に200メートル有ります。このような村はきわめて珍しい事です

昭和34年無人となった旧黒河村

江戸時代は北又、柿平、久保、黒河の四ヶ村で北又郷を構成し、高野寺領でした。そのため村の年貢は、山内の塔頭の修理に使われていた
村々で有る事から、「修理領」とも呼ばれています。北又荘の村々の規模を天正19年(1591)の検地帳を検討すると、件数は12〜3軒で米はわずか8斗3升8合、(約140kg)の計算になります。住民6〜70人の主食は米ではなかったのかと疑問です。元和10年(1624)には佛谷に水田4反歩記録されています。佛谷川(黒河川)に沿って石垣を積んだ水田跡が多く見られます

平地区は大正七年に黒河村地区は大正11年から無人となり、残ったのは佛谷の三軒と滝の又の一軒、ねたの尾の五軒、が隣保組を組織し
大戦中黒河を守ってきました。明治時代になって、政府は強制的に神社を統合しました。大阪に嫁に行った91才の方は、「私は平地区の出身です。氏神様がなくなった、大正時代の初め頃、五軒の家が申し合わせたかのように住み慣れた平を後にした」と話してくれました
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