地図から消えた黒河村


地図から消えた黒河村(クロコ村)

1)揚柳観音をまつる標高1008メートルの「揚柳山」又高野の氷室(ひむろ)であったと言われている標高988mメートルの「雪池山」(せっちさん)の山麓に位置し揚柳山を水源とする仏谷川、(黒河川 くろこかわ)沿いに住居が点在していました
仏谷、黒河、平、の山地区から構成され、一番低い仏谷地区は、近くの久保小学校の標高540mとほぼ同じ高さです。
 これより上流に約600メートルさか登ると黒河地区が有ります。ここは、黒河村の中心で有ったようで氏神の「八幡宮」や壇那寺の「愛染寺」、「阿弥陀堂」が立っていました
奥の院まで3キロメートルと、もっとも奥地の平地区へは人一人が通れる昔ながらの道を杖を頼りに急坂を登らなくては成りません。この地区は江戸時代初期に開発されたようで平らの地名がその事を物語っています。平地区は標高750メートル、仏谷地区から1.5キロメートル標高差が実に200メートル有ります

2) 検地帳が物語る黒河村
  文献の初見は天正19年、(1591)の検地帳であり、「紀州伊都郡黒川村」とあります。川に河の字を当てるようになったのは、元禄時代からのようです。検地帳に「「ツくい」「カミくろこ」の地名が記載されており、屋敷数は、つくい9筆、上くろこ4筆、計13筆、すなわち13軒となっています。この数字は江戸時代を通じてほとんど増減無かったようです。
 黒河村は仏谷川最下流の仏谷→黒川→平地区へと開発が進んだと考えられます
 平地区の開発は何年頃か資料がないので、さだかではありませんが、元和10年(1624年)の水帳(検地帳)の内容から江戸時代初期と考えられます 
(原野を開いた所に平と地名をつけるのが紀北地帯では通例です)

3)戸数と人口

 ○「紀伊風土記」天保10年 1893年 戸数 11戸
                     人口 40人
 ○宗門改帳   寛永3年  1869年 戸数 11戸
                     人口 51人 男25人女26人
 ○共有地契約書 明治36年 1903年 戸数 12戸

江戸時代300年を通じて、戸数11から13戸、人口50人前後と固定した戸数人口で有ったようです

4) 各地区の概要
 1,仏谷地区、
黒河村で一番早く開かれた地区で、仏谷川沿いや谷沿いに水田があり、家も仏谷川沿いだけではなく、横に広がりがあります。黒河村では、飲料水を始めとして、仏谷川の全く利用できない立地条件で、湧き水が全ての生活用水であったようです。昭和22年には、待望の電気も通じ、日常生活も一変しましたが、産業構造や生活の変革には逆らえず、昭和34年には、地区から人家が消え廃村になりました。

 2,黒川地区
 黒河村の中心地で、昭和11年に完成した黒川林道の終点に当たり、標高610メートルの高地にあります。又、村の氏神の「八幡宮」や壇那寺の「愛染寺」・「阿弥陀堂」が建てられ、信仰の中心地でもありました。
 黒河地区は実質山本、北浦両氏の本家、分家のみの集落で、大正11年の北浦本家の移転を最後に無人の里となり、残った建物は社寺だけとなりました
 3,平地区
 黒河村でもっとも遅く開かれた所で、仏谷川のV字谷の上方、揚柳山の中腹、標高750メートルに位置し畑のみで一枚の水田も無い地区です。
奥の院まで3キロメートルで、仏谷、黒河両地区とは立地条件が異なって隔絶しており、祭祀は平地区のみで行っていた模様です。
大正7年最後まで残っていた一軒も移転し、黒河村で最初に廃村に成りました

 5,社会生活
 山村の黒河村へは、1度も行商人が訪れた事がなかったと言われ、日曜生活用品、の購入は、河根、九度山で買い求めていたようです。行くときは林産物の花、炭等の背負い、得意先で売り、帰りに日用品を購入していたようです。

 6,交際等
  安政四年1857年、当時の村内某家の棟上げ式へ祝儀を届けた家々の範囲を見ると、仏谷ー河根間を半径とした円周内の村々で、歩いて片道2〜3時間の家々です。
この内側が日常生活の交際範囲で、別の見方をすれば、黒河村の痛婚圏であると考えられます。平から3キロメートルの高野山内は、当然交際範囲内にある距離ですが、寺院を中心にした特別な社会であるため、あまり結びつきがなかったようです。
交際範囲内の村々は、面積的には広大ですが戸数はきわめて少なく、全戸が親類同様の交際をしなければ社会生活が成り立たない状態であったと考えられます。
 たとえば、60年ほど前までは、黒河では産婆が一人もおらず、出産は妊婦が机等に
もたれ四つんばいの姿勢になり、経験豊富な祖母やまれに父子が赤子を取り上げたと言われています。

 7、黒河道にまつわる伝説
 文禄三年、1594年、高野山青巌寺、現金剛峯寺において山内禁令の能狂言を催した豊臣秀吉は、急な雷雨を大師の怒りと感じ、麓の隅田にある利生護国寺まで黒河道を馬で駆け下りたという。
 この下山は、「紀伊の国名所図会」によると「此峠、(黒河峠)の西を越えられしいひ伝う」とあるので下り始めの部分は黒河峠ではなく、揚柳山西の粉撞き(こつき)峠
(子継峠)を経て久保に出た物と推測されます。
あくまで言い伝えの域を出ない話ですが、高野山の禁制を破る事による報いは、当時の最高権力者をも恐れさせる物であったと言う事でしょう
                                                  
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