国城山
(くにきさん)
2018/09/06

国土地理院地図にリンク
総時間08:00〜16:00
距離 約14km
台風21号の大被害も気に成るが、気にしていても直る訳でもないしと、近場の橋本市の国城山に登った
コースは一度経験した黒河道から二等三角点伝道坊(村人はデンデボッと呼ぶ)山名、鉢伏山?明神ヶ田和、国城神社と登り、国城山552mを踏み三角点を特定しながらかむろ大師、学文路天満宮と廻った。
すんなり道を歩けばルンルンだが、デンデボッ(鉢伏山)や四等三角点国城ではブッシュが有った
歩くだけならブッシュは無くナガーイハイキングと言ったところだ。
一般的には南海電鉄の紀伊清水駅から取り付き、世界遺産に登録された黒河道に入って行くが、和歌山市と橋本市の電車利用は不便で、京奈和道利用なら40分程度で橋本に着く。
駐車場は以前県主催の黒河道ハイキングのさい駐車場に成った県の伊都振興局庁舎に声をかけて駐車した。
スタートは伊都振興局
 
伊都振興局と国城山
紀の川にかかる橋本高野橋を渡りきり、階段を下りて旧高野街道にでる
レトロな昭和の雰囲気がムンムンの橋本市清水の町は歩くに楽しい
  
常夜灯や西行が一時住まいしたと言う西行堂には、高野山まで六地蔵になぞらえて六個の地蔵が祭られたその第一の地蔵が有る
当時は高野街道として栄えた京大阪道の清水の町だったのだろう

これに比べ、黒河道は裏街道とでも言おうか、少し急坂でも近道の黒河道を高野の寺々に村人が物産を納めた雑事(ぞうじ)と言われる村々の物産を収める通路としていたのでは無いかと感じる。
又、歌舞音曲を禁じた高野山で禁を破った太閤秀吉が神の祟りと雷鳴轟く中、騎乗で橋本の隅田八幡神社に高野山から逃げ降りた伝説の道でも有る
どの道が黒河道かと下調べも無いが、二度県主催の黒河道ハイキングに参加した記憶から(二度目) 定福寺に向かう
途中に幟旗が並び道標が出た。
此処だここだと車道を登ってゆく
  
世界遺産登録後は道標や村人の案内が増えコースはめっちゃわかりよい
又、救急時の場所案内も適宜に有り場所場所の案内も多い

定福寺は橋本市や県の文化財が多い寺だ
  
以前のコースは車道が主だったが、世界遺産追加登録後は、残っている古道を忠実に歩くようだ
道上に農道にでも入るように祠下に道標が出た
  
黒河道は最後まで整備が遅れたのと、通行者が少ないからだろうかマダマダ踏み固められていない
案内が無ければ車道を登ってしまいそうだ
台風後の道は小枝が多く落ち荒れ模様だ。
車道に出ると車道には祠が有った。
簡易トイレも有り其の準備は出来つつあるようだ
車道からマタマタ農道風な小道に入る
家横を登りつめると、まさに農道だ
だが、草が生えこんではいるが、横に西国33箇所を模した祠が出て、県パンフレットには五軒茶屋岩掛観音と有る
 
  
 
民家の土手に豆柿がたわわに実っている
豆柿の渋から薬を作ったと聞く、トウキ(当帰)の薬草などと共に高野山に運び今で言う漢方薬を作ったのだろうか
聞けば、熟せば甘く美味しい柿になるそうだ。
車道を少し歩けば、マタマタ道標は山裾の道へと案内が有る
綺麗な道ばかり歩いているトレッカーなら??と感じてしまいそうな山中の道だが、これが古道だ
  
小枝が落ち歩きにくい
ドンドン登れば案内は完璧だ
  
鉢伏弘法井戸が出る
今も水は湛えるが、チョット飲む気がしない

パンフレットには
山の形が鉢を伏せた形に由来するとも、蜂が群生して住民を苦しめていた所弘法大師が群がる蜂に大喝して蜂を伏せたことに由来するともいう。
井戸は大師の加持水とも言う。

其の先で倒木が出るが、県は整備するといった


この先峠から古道を離れ、地形図に載る道を鉢を伏せた形の山、鉢伏山(最近発売されたエアリアマップから)に登る
道ははっきり残るが、倒木で歩けたものでは無い
少し路を外し尾根を登るが、ここも台風の影響で小枝が樹間に落ち少し歩きにくかった
普段なら人がとおる隙間はルンルンだろう
  
くもの巣パックは嫌な物だが、案外少ない
油断無く読図は怠らない
  
二等三角点は 伝道坊といい、明神ヶ田和の奥様は、鉢伏山などとは言わない
村ではデンデドッというとおっしゃった。
どうやら眉唾の鉢伏山だ
基準点コード
ICタグ(ucode)
等級種別
基準点名
北緯
東経
標高(m)

少し引き返し明神ヶ多和に向かえばいいものを、引き返すのは嫌だと前方の尾根を下るが、小枝の倒木に悩まされる
何とか青渕ルートの黒河道に降り明神ヶ多和に行く
  
明神ヶ田和で年老いた奥様と出合い明神ヶ田和の話を伺う
たった一人の住人だ。
奥様はこの上で蚕の養蚕所が有った。
今は跡形しかない。
私は四国徳島から嫁に来たが、こんな山奥も住めば都、毎日娘が来てくれるから寂しくは無いと、道を綺麗に掃いていた。
旧道から国城神社に向かう
養蚕所跡には大きな井戸跡と祠が有った
 ヤブランが綺麗だ

明神ヶ田和は萱谷ルート、青渕ルート、国城神社、清水、賢堂(かしど)の分岐で、弘法大師が此処で護摩供を行い明星から無数の流星が現れたことからこの名があると言われる
  
国城神社の階段前にルートを取った
階段下まで車で来ることも可能だ
下から見える杉はこの階段下に生えているが、此処最近は勢いが無い
  
息を切らせて階段を登り国城神社に登った
 
神社でお弁当タイムだ。
以前とは違い桜が伸びて見晴らしは少ない

神社は古く謂れはこうだ

国城神社由来
社名 国城五大明神
例祭 四月二十三日 十一月二十三日 春秋大祭

国城神社の由来は遠い昔し いわゆる神代の頃に源を発すると言う伝説があるという
この地域の開発者(国主)の神が国城山の頂の大樹に姿を変えて表れておられるのを信じ、神の鎮まる浄域として社を創建したのは大和時代である。(一千数百年前)
古来一般の尊崇極めて厚く遠近の善男善女の信仰の的として由緒深い神社である
伝説によれば、坂上田村麻呂将軍が朝命によって奥州に出征したが、戦況思うに任せず苦慮していたある夜、国城社の山林に自生する竹を用いて矢竹とすれば大勝利有りと夢のお告げを受け当社に参詣して二十日間のお籠もりをして勇躍出征して大勝利を得たという
霊験あらたかさに驚いて神託に感謝しお神楽を奉納したのが始まりである
以来今日まで連綿として奉納を続けているのはこの伝統との深いゆかりを秘めた物である
国主の神を際祀する意味から国城神社と呼ばれ清水、西畑、南馬場、産土神として氏子との深い絆に結ばれ今日に至っている
御際神は後世に天照皇大神を本社とし、八幡大菩薩、春日大明神、愛宕大明神、そして荒神の勘請により五社をお祭りすることとなり神の最高の敬称である明神と崇められ国城大明神と成られたのである
昭和41年11月 平成18年3月 とある
国城山からは読図だが、先ず山頂に登るが道などは無い
エーイとややブッシュを登り山頂に向かえば、好き者たちが山名板をあげる
  
見晴らしも何も無い
そそくさと破線の徒歩道に下る。
地形から其の位置はたやすい
山友会と書かれた道標が、適宜に有り読図は疎かにしてしまった
  
今は役立たない看板も有る
兎に角山友会の看板にしたがってルンルン
台風後でなければ歩き良いだろう
  
ところが、四等三角点国城の特定をしたいが読図もせず、ここだろうで尾根に入った
アララ、点が無い。
大きく間違っていた。
戻るのも嫌だと尾根を進んだがこれも小枝が邪魔だ
上右端の写真から点に登る
真っ直ぐに道跡を感じる ??
点は小さなふくらみの上に有り、正面は階段、周囲正面は石が積まれている
祠跡か、マタマタ古墳か?ロマンを感じる四等三角点、国城だ
 
バリバリと道に下り、地形から現在地を探りながらかむろ大師に向かう
ルートは網の目のように有るが、どれも道が生きている
読図も楽しもうと、途中の四等三角点の北学文路と四等茂原を取り入れるコースで下った
民家が出るまでは廃棄されたような果樹園や舗装の農道を下った。

大きな板の道標が数枚有ったが、裏向きや方向違いが有ったので出来るだけ直した

四等北学文路
兎に角道は多い。
分岐ごとに案内はあるが自分の思うコースで下る
分譲墓地内を下るが、名前はかむろ墓地だが、かむろ大師には出ない 何故何故と道を探る

四等三角点茂原からの見晴らし
かむろ大師は新しい。
なにやら手を合わす気がしなくそそくさと下ると、途中に昭和の匂いの看板小屋がでた
  
団塊の世代なら看板は見覚えがあるだろう。 懐かしい
案内に従い学文路天満宮に向かう
7分と案内に有るが、??ブツブツショウタンだ
 
真新しい神社はおごそかを感じた
孫がとJiJiの願いに手を合わせた
社は小さいが、参道の取り付き階段は長い

撮り鉄さんに人気のレンガ渡線橋を写し
この道がよい、これが良いと分岐ごとに地図を見て、最後は柿畑横を突ききり、R370にでて伊都振興局に向かう
元気があれば、紀の川沿いの京大阪道を歩くのが良いだろうが、ショウタンは暑さと体力無さで、近道近道と歩いた
 
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