高野山古道 長坂街道
高野下から鉢覆山と奥の院
2015/01/07

明治40年頃の(1907年)河根村は、紀和鉄道の開通によって高野登山客が通らなく成った上に、日露戦争の後で大変貧しく、村民の多くは税金さえ収められなく成っていました。若い人たちは参詣客で賑わう高野口ー椎出街道に出稼ぎに行くために、人力車やカゴを担いで峠を登り、田畑の畦道や山道を通って、九度山や赤瀬へ出ていましたが、その土地の帳場(組合)仲間に入れてもらえず、こぼれ客を拾って賃金を稼いでいたのです。
こんな苦しい村民を見かねた11代村長、刀弥富太郎氏は,、かべ山と言われた松尾道を開こうと村民に呼びかけ、私財をなげうって、無給で難工事を続けました。全財産が無くなった刀弥さんのあとを継いだ12代村長、中川康次郎氏の奔走により明治43年(1910年)に完成し、当時、刀弥道と呼ばれその後の河根村の発展に寄与しています。
両村長の遺徳を偲びここに顕彰し後世に伝えます
ふるさとづくり2001
冒頭に書いた文は、九度山町河根の丹生川峡沿いに有る顕彰の碑を読んだ時、鉄道の発展と共に高野古道も大きく変わって行ったのだろうと興味がわいていた。有名な、町石道、古い京大阪道、高野山には七つの入り口が有ったとか、国土地理院からその道を推測して読図で登る楽しみを見出していた。
そんな中パソコンで検索をしていると、私には神様のようなページが見つかった。
http://choishimichi.com/shinkoya01.html
今回のコースは、冒頭の鉄道と周辺の村人に与えた影響が顕著に現れたコースだろうと、相棒を誘って登った
丹生川峡沿いの凸地に路駐して南海高野線高野下駅側の椎出郵便局に向かう
コースは読図を楽しみながら古道を歩く、参考資料のコースにから椎出郵便局を南に入るが、アララ、地図表記の道は小川の右岸を登るが、現場では左岸を登る。
相棒は早速道が違うのではとの疑問だが、頁を読んでいた私は、地理院の誤記だろうと相棒に話す
道は途中で橋を渡り右岸を登ってゆく
(私のガーミンの軌跡も正しくは拾っていない)
しばらく歩くと橋があり地理院地図どおり右岸の道になる
 
右岸を歩き右手の最後の家前から左に分岐を上る。

ここから、右手道との出合いまで現在地の読みは難しい
ここだろうと、合っているのかいないのか?とにかく右手道と出会うまで一汗流す傾斜だ
  
正面のピークや鉄塔、西に見える町石道沿いの、雨山や小都知ノ峯から現在地を推測するがいまひとつだ
とにかく道が出合う所ではピンポイントで分かるがずいぶんと単純コースで現在地読みは難しい
なんやかんやと登ってゆくと、右手上に苅萱堂が見え現在地をつかんだ
苅萱堂は傷むにまかせ傷みが激しく見るに哀れな姿だった。
村人が軽トラで登ってきた。聞くに修復することはないだろうという
後でこの方に今日のコースを聞くことになる
  
内部の様子を写してみたが、マダマダお寺の様子を残している
村人は10年少し前まで夫婦が住んでいたとか、
苅萱堂前を通り古道に入る。傷みがあるが道ははっきりと残り、地図では墨線で書かれ荷車が通れる広さが有る

私たちが登ってくる途中で、通行の車両が止まり何処に行くのかと尋ねられる事が二回あった
苅萱堂から高野山と答えると、道は無い危険だと言う。地図には載っている。道が無くなると、車道に上がると答えると、気つけてとおっしゃった。参考頁のように距離道標や長坂地蔵、長坂弘法堂が出る
 
長坂弘法堂で道はプッツリと無くなる。
一休みと休息していると、前出の村人が取り水タンクを清掃していた。
85歳の椎出の松本氏だ。
このルートに住み、子供の頃からの長坂街道を知っていた。
この道は、今はこの先は無くなったが、木炭バスが通り、馬車や通行人で賑わった。
道は木の橋がかかり、谷を渡し通行が出来た。ここから先は道が流され消えたと言う
驚く事にこの道は県道と言った。つい先日も地籍調査をしたと言う

登山的には通行できる踏み跡らしい物は有るが、通行は危険といった。
とにかく話を聞いた
この付近だけで4軒の旅館があった。この長坂弘法堂の所にも二階建ての旅館があり、二人の老夫婦が住んでいた
子供の頃は、小遣い稼ぎに旅行者のカバン持ちや、尻押しをして小遣いを稼いだとか
長坂街道は賑やかだったようだ
 
長坂弘法堂裏から30mばかし上の車道まで登るが、踏み跡も薄く急傾斜だ
カーブミラーの有る、高野槙植林横に出る。
旧高野街道、長坂街道もこの車道に出会うが、その様子は今は無い

お堂裏から登る↓
  

後は鉄塔や、池の峯分岐で現在地を読む
  
紀伊神谷で京大阪道に出合い長坂道は終わる。
ここまでの間は、古道と言うより近代の道だが、鉄道が極楽橋、ケーブルカーが高野山へと伸びると、賑わった長坂街道や紀伊神谷は衰退の一途をたどったと言う。ただ神谷の住人は、京大阪道は距離が短く今も道を知る地元民の通行が多い
道は細いが、短時間で下れると言った
 
以前に京大阪道を歩いた時に無かった道標が出来、ルートは分かりよくなっていた
極楽橋で休憩もせず不動坂を登ったが、途中から旧不動坂を登った
現在不動坂からいろは坂にと入るが、疲れた足にはつらいほどの急坂だ
案内には48曲がりと有ったので数えてみたが、21箇所数えられたが、マア何時水平になるのと思う急坂クネクネだ
  

旧道には万丈転、外不動、岩不動と稚児滝等の地点の案内版がある
清不動前に出て新不動坂を横切り、マタマタ清不動横から旧不動坂に取り付く。清不動裏にトロッコトンネルがあり開発が盛んだった事の名残が有る
 
花折塚で新道と出合い、あと少しと女人堂まで先を急いで、女人堂で40分の休息だが、平日だ参詣者はいなかった
 
女人堂裏から鉢覆山を特定した
高野山を取り巻く山を八葉蓮華山と呼び、天軸山 揚柳山 摩尼山 姑根山、鉢覆山 弁天岳 大門山 今来峰、宝玉珠山(宝珠峰)
を言う

今日でショウタンは八葉蓮華山を全部確定した(姑根山は魔尼山南、894.5mの三角点の位置)

 
街中を歩き久々に奥の院へ墓地中を歩いた
 
世界遺産となってからは、日本人より外国人が多いと思うほど多い

奥の院で初詣を済まし、最後の目的地、山上の苅萱堂にお参りを済ませた
お地蔵さんを祭る苅萱堂、孫たちの健康を祈り、あと少し歩こうと、消防署前まで歩いた後はバスで高野山駅まで行った
  
長々と書いてみたが、今日の軌跡を載せて起きます
忘れられたような高野古道、歴史に翻弄されたその足跡が面白いコースだった

郵便局付近と川沿いは軌跡が乱れています
 




カシミール地図1/25000
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