名草山と名草戸畔
2022/05/2
単独
 

ヤマレコにリンク
 名草山に近い元山仲間がフェイスブックに名草山のコースを乗せた
名草山は勝手道や生木伐採で山は荒れていると聞いていた。
よくよく考えれば日本の有史以前からこの山は名草の神奈備で神聖な神が宿るとされてきた山だが、開発や観光化が進みそんなことは昔に忘れた和歌山人だ 
私もその一人だが、イワレヒコのちの神武天皇と戦った、豪族の女性族長 名草戸畔はにわかに名草姫として賑わいだした
少し関心を持てば多くの記事が出て私の行動にピッタリと、イワレヒコに負け、体を頭、胴、脚部と三つに分けられ、それぞれの場所に祀られたと言う
宇賀部神社、杉尾神社 千種神社、そしてその伝説から中言神社を廻ってみた。
先ずイワレヒコの長兄彦五瀬命(ヒコイツセノミコト)が和歌山の地で崩御して、その墓地を祀る竈山神社から歩き始めた
大正の頃、日前宮、竈山神社、伊太祁曽神社の三社にお参りの為に、山東軽便鉄道が引かれるほどの神社だ、
三社へは和歌山電鐡として運用される。最寄り駅は竈山駅です
駅から竈山神社に向かえば、和田川を越える県道を跨いで大鳥居が建つ、


付近は道の拡張で私もナビがいるほど道は変わってきたが、ヒコイツセノミコトの陵墓は綺麗に整備され、昔のままだ
私の子供のころ、千石山と言う名の小さな森が有った。千石の船が着いたと言う
小高い20m程度の丘の陵墓だ。付近は紀ノ川が流れ海も近く風光明媚な所だったのだろう
何せ2000年以上前の風景は想像しかない
  

陵墓に渡る橋下の川は引き潮で水が引けば水は消えるほどだ
信じるも信じないも心の問題、私は信じたい。私の名前を考えたのは竈山神社の宮司さんだ ( ´艸`)

名草山には何度も登り登山道整備や倒木撤去等で遊んだこともある
山下に山仲間が住んでいたこともあり良く登ったが、東西南北登山口が有る山だが、北からは経験が無かった
登山口を地形図から探り取付いた
取付いたとたんに、此方が良い、此処が良いと、中言神社に向かったが、地形図には神社マークが載らない??
付近住民の簡易地図から検討を付けた
  

はさみ池まで地形図を拡大してみます

名草山山頂に行くには本当に多くの道が有る
初めてなら、踏み跡の濃いルートで登ればいい
尾根中央に乗れば良い。
案内は多い
中言神社と尾根道の様子を載せて置きます
 
  

山頂に着けば北側に行くも行かないも自由でしょうが、コース的には道が多すぎて分かりづらく、少し険路です
一度内原神社と言う所から登られればよいかも
駐車場が無いのが難点かな
山頂
 

ヤマレコに少し詳しく書きました。リンクを貼り付けておきます

名草山と名草戸半記事

戦いに負けた名草戸畔は体を頭、胴、脚に分けられ、頭は宇賀部神社に埋められたとか
宇賀部神社はおこべさんと慕われる神社で、小さな山を背にヒッソリと祀られる神社だった
私も、子供のころから三社参りとおこべさんの参詣は行ったが、最近はさぼっている

小野田寛郎元日本陸軍少尉がルパング島で終戦後も30年間、部下と共に当時の上官の命令守り戦い続けた
その小野田寛郎少尉が日本に帰国したことから神社は賑わった
その小野田寛郎が生まれた実家が、この宇賀部神社だった
その不屈の精神はいかに諜報教育を受けたとはいえ、日本が負けても再度上陸した時の情報を取集する事を任務に戦い続けた
私なら三日も持たないだろう
不撓不屈は小野田寛郎こそ言えるものだと感じる
マア、世の中色々と意見は有るだろうが、小野田氏のご両親を子供心に知る私にとっては、右も左も無い経験から平和を願う方だろうと思う

 

フィリッピン大統領に軍刀をわたし投降する小野田寛郎、
最後まで部下として戦って戦死した小塚金七一等兵の事はさらに忘れてはならないと思う

おこべさん

  

本題の 名草戸畔の事だが、諸説が有ります
小野田家にも口伝の言い伝えが有るとか
竜伝説もあり、紀ノ川下流に流れ着いた竜の伝説有り、2000年以上も立つとマア夢ロマンでしょうが、私は名草戸畔のはなしで書きたい

おこべさんも、時節柄か大きな看板で名草戸畔を書いている


また神社の山は古城跡で城山と呼ばれています
城は小野田城と言うそうです
一度登ってみようと、神社脇から登ってみましたが、平らな削平地が有ります
山名板マークも無く、ただの神社の森でした
昭和の時代でしょうか、山は開墾された跡が有り、ごく最近まで耕作されていたようです
小屋が有りその様子がうかがえました
 

次は杉尾神社です
神社についてはホームページに以下書かれています 

御由緒

 第四十五代聖武天皇の御代、神亀元年(西暦七二四年)に勧請されたと伝えられている。

古記録があり神拝献備の事が略記されており、

奥付に鎌倉時代初期の建久二年(一一九一年)に書かれたものを室町時代の永禄年中(一五五八~  一五七〇年)に書き写したとある。


室町時代末期の元亀年中(一五七〇~一五七三)の棟札がありその銘に曰く、「二品仁助親王とあり こは仁和寺号、厳島御宝、

すなわち伏見院貞敦親王の御子にして後、奈良院御猶子なり」


また、慶長七年(一六〇二)に書かれた祭事の記録があり、その巻末に、「去年大守浅野候より検知ありて神事の料なし因りて略式を新にす」

とあり、赤穂浅野家との関係もうかがえる。


「おはらさん」お腹の神様として知られている。

しゃもじをお供えして祈願する風習がある。

むかしの人はよく「しゃくもち」とか言って腹痛に悩み、そのつど霊験あらたかな「おはらさん」に平癒を   お願いしたという。


今日でも遠く他府県からお参りに来る人が数多い。


お腹の神様となった由来については諸説ある。


昔紀の川の河口(今の北島橋下流)に、川からか海からか定かではないが、一匹の大蛇が川岸に流れついた。

玉をくわえ腹部になんと金色に光る杉織状になった輪があり、立派な足もあったと伝えられている。

そうして巽の方位をさして横たわり何かを  念ずるごとくに・・・。これぞまさしく神の化身と、

小野田に頭部を埋め、杉尾神社に腹部、又重根の千種神社に足、と三体を神としてお祀りしたと伝えられる。


 
名草戸畔伝承では、名草戸畔の胴が杉尾神社に 納められたとされている。


杉尾神社の鎮座する山を玉輪山といい、そのはづれの谷間に小さな池があちこちにあり、その堤に「たにし」のからが今でも沢山あるという。

大蛇の好物であり生息している証拠と力説する人がある。また、おはらさんに埋められたのは夫婦ではなかろうかとも言う。

 
浄光寺原、道場山(氏子地域名)を向かいにして杉尾神社の辺りを北山と言い古くは桜村と言われた。

その道場山から嫁いでいったある孝行娘が浅野家と縁者になったわけであるが、

嫁ぎ行く前夜激しい 腹痛にさいなまれ、うわ言に「北の山に埋もれている古い器があるから、それで亀の川の水を汲み 杉尾神社に供えてほしい

言われた通りにすると、不思議にも激痛がおさまり無事赤穂に旅立てた。 それ以来お腹の神様になったとも言う。

 いづれにしても説は沢山あるが、

 
『 お腹痛けりゃ杉尾のお宮

    腹の黒いのはなおりゃせぬ 』

 
いくら霊験あらたかな「おはらさん」でも、腹の黒いのは治らないと俗にうたわれている。

            

境内社

八坂神社・皇大神社・蔵王神社・金刀比羅神社・厳島神社・秋葉神社・弁財天神社・天神社・金本稲荷神社

場所は和歌山県海南市堺858
杉尾神社では竜伝説もかかれ、社務所にてパンフレットも頂けました
また、裏山の玉輪山も訪ねてみたいと思いましたが、一段高い位置にある八坂神社上に猪除け囲いが有り登れませんでした
宮司の話から読みは ぎょくりんさんでした

   

八坂神社
  

杉尾神社はおはらさんと親しまれ、お腹の神様として霊験あらたかですが
村歌に
お腹いたけりゃ杉尾のお宮 腹の黒いのはなおりゃせぬと歌われています
 
千種神社由来

古くは百草神社と言った。
勧請年月日は詳かではないが、『紀伊続風土記』に「田津原・伏山・大谷 三ケ村の産土神なり 祀神詳かならず 百草は地名と見ゆ 応永・永正などの文書に百草の森の名見えたり……」とある。
旧記に「百草明神は人皇第三十六代孝徳天皇大化三丁未年雨ノ森と言ふ所へ御鎮座、右末社七社有……」とある。
雨ノ森とは百草の森のことと考えられるので、いずれにしても相当古くからのものと思われる。
明治43年、熊野神社(海南市別所)及び八王子神社(海南市扱沢)を合祀、社号を千種神社と改めた。
一説には、神武天皇ご東征のみぎり、皇軍に随順することを肯じなかった、紀北地方を支配していた豪族である名草戸畔の足を祀るともいわれる。
そのことから、神前に履物を供え、足腰の無病を祈る風習があり、足神様としてあがめられている。
境内には樹齢700年を越える老楠があり、中に地蔵を巻き込んでいる。
里謡に「行たら見て来ら 重根の宮の 楠に巻かれた地蔵尊」というのがある。
100年程前までは、地蔵尊の一部を見ることが出来たらしいが、今は完全に巻き込まれてをり、その姿を見ることは出来ない。

 
最後は、海南市重根の千種神社です

千種神社は、脚部、足が埋められたとか
神社は小高い丘にお祀りされ、村の鎮守様と言う感じでした
別名は百草神社と呼ばれうっそうとした森だったそうな

今は、市の天然記念物の巨木の楠が有名そうで
看板には、
いたら見てこら重根の楠にかまれた地蔵様、と言われた巨木に挟まれた地蔵様が有ったそうな
今は完全に巻き込まれ姿は見えないそうです

私もウロから覗いてみたがそれは見えなかった

  
 千種神社には、竜伝説も名草戸畔伝説もかかれていなかった
小高い丘に巨木の楠が目立つ社の森は伝説をうかがわせるものは無かったが、あしがみさんと慕われているようでした

名草山、山仲間の話から想像はしていたが、あれほど生木を切り、整備もせず倒したままの登山道
毎日登山の方も顔をしかめながら、このままではと顔をしかめた

やはり、実在した名草戸畔、今は名草姫と慕われ、演劇等も行われている
裾野では、中言神社が名草姫を祀り、今も神奈備の山、美しく楽しく、登山を楽しませてもらいたい

取り留めなく成っていますが、今日一日の気持ちや、感想を書いてみました

ヤマレコにも記事をあげています
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