和歌山市のシンボル和歌山城

和歌山城は1945年(S20)7月9日太平洋戦争の和歌山大空襲で消失した。その後再建の気運が高まり市民の寄付により昭和33年10月1日1憶2000万で再建が成った
その後城は整備が進み今市民の憩いの場となり多くの観光客でにぎわっている。ここ最近H18年3月にも御橋廊下が復元された。

コノお城の天守閣内に三等三角点がある。
これを見に行ったがコノデーターと共に少しお城の事も書いてみたくなりお城でもらったパンフレットを参考に書きました
又私の写真で紹介したいと思います

三等三角点 虎伏山(とらふすやま)

種別等級 三等三角点
点名 虎伏山
所在地 和歌山市一番町三番の2
緯度、経度 34°13′39.4568 135°10′15.9424 
標高 48.90 m
埋標 埋標日不明  選点日、S32年1月23日
柱石長 0.8m H12年2月15日調査

場所は天守曲輪内の庭の桜の木から北西6.5mの所にあり3cmばかし出ているが私の錯覚かやや傾いているように見える。
庭の中には入れないが見る事はできる

和歌山城の三等三角点虎伏山について

と言う貴重なメールを頂きました
三角点は写真の石の下に有るとの事です

 私も和歌山に行ったときに、三等三角点虎伏山を訪ねました。

HPの石が写っていますこの下に境界標のように十字の長い御影石があり、三角点としては、疑問に思っていましたので、本日、国土地理院近畿測量部に行く機会があり、職員に尋ねましたら、この十字の石の下に三角点が埋設されているということでした。三角点を設置後に、土をかさ上げしたそうです。そのために、HPに写っている石は目印のため置いているということでした。

                        


天守閣から見た庭園

ここで和歌山城について少し書いておきます。詳しくは
和歌山城管理事務所
〒 640-8511和歌山市七番町二三
TEL、073-435-1044又は
和歌山城天守閣TEL073-422-8973でお尋ね下さい



築城の歴史

天正13年(1585年)豊臣秀長は兄秀吉の名を受けて和歌山城の築城にとりかかった。しかし秀長は和歌山城の完成を見ずに大和郡山にあり、その後和歌山の地に戻る事はなかった。翌天正14年秀長の家臣の桑山氏重晴が城代として3万石を領し和歌山城に入城した。桑山氏は14年の在城期間に和歌山城本丸部分を中心に築城を進めた。慶長5年1600年、関ヶ原の戦いで軍功のあった浅野幸長が37万6千石を領して和歌山城の城主となり桑山氏は大和布施に移封された。
浅野氏は19年間の在任中に二の丸部分を整備させたり、一の橋門を大手門にするなどその後の基礎となる整備を次々と行った。
元和5年1619年浅野氏は安芸の国広島に移封され、徳川家康の第十子徳川頼信が55万5千石を領して入城した。以後和歌山城は御三家紀伊徳川家の居城となり
「南海の鎮」として幕府の西国支配の拠点という新たな役割を担う事になる。頼信の入城の際には銀2千貫が支給され入城直後から和歌山城の大規模な整備工事や城下町拡張整備が実地された。これらの政策はその後250年続く和歌山の繁栄の基礎となった

本丸

 



本丸は標高48.9mの虎伏山(海上からの景色がそのように見える)の頂に位置し東部の本丸御殿と西部の天守郭(曲輪)で構成されている
本丸御殿は浅野期には二の丸と呼ばれ藩主の日常生活が営れたが、徳川家以降はその機能を失われ空御殿になった
天守郭は大天守、小天守、お台所、乾櫓、二の御門櫓、楠門を多聞で連結し楠門を閉じると要塞化する連立式天守形態を取る
江戸初期の天守は弘化3年1846年落雷のため消失した。幕府は通常城郭再建を許さなかったが、和歌山城は御三家紀伊徳川家の居城で有ったため特別に許された
四年後に再建され(1850年)た。この再建天守は1945年戦火により再び消失した。
その後天守台のみであったが和歌山城再建を望む市民の手によって1958年に鉄筋コンクリートにより復元された

大手門
 

浅野、徳川時代を通して大手門、(表門)として機能した当初は一の橋御門と呼ばれていたが寛政8年8月大手御門と改称された
明治48年自然倒壊して撤去されたが昭和58年一の橋と共に復元された。

岡口門
 

岡口門は元和7年1621年徳川氏が搦手門(裏門)として建造したものであり和歌山城に残る数少ない江戸初期の建造物である
土塀を含め国の重要文化財です

土塀


鉄砲狭間が有る。



御橋廊下


御橋廊下は藩主と付き人だけが二の丸と西の丸を行き来するため架けられた橋である
そのため外から見えないように壁と屋根がもうけられ部屋の廊下のような作りになっている
斜めに架かる廊下としては全国的に珍しい。江戸時代の図面に基づき平成18年に復元された

追い廻し門


追い廻し門は高麗形式で創建は寛永六年と伝えられ当時から朱が塗られていた
門外に騎馬の練習所があったのでそう呼ばれるようになった

その他の写真

天守閣から見た景色




楠門





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