橋本市恋野
雲雀山と稲荷山

2016/08/04
単独
歩行時間
2時間30分
中将姫と言えば当麻寺の曼荼羅を連想するが、ショウタンは宇陀市菟田野宇賀志の日張山青蓮寺 裏山の日張山に登った事から、有田市の雲雀山に登り今回は橋本市恋野の雲雀山を歩いた。
そして恋野の中将姫伝説の一部を歩いてみた

真偽のほどは??として、三箇所に中将姫の伝説が残ることは面白いと思う
今回の恋野地区の保存会会長の芋生氏はハッキリと史実ではなく説話だと言う
地名が残り中将姫伝説が残ることはその元が有ったのだろう。
その話は、これこれしかじかと話してくださったが、各所の伝説の話の腰を折っても面白くないだろうからその話は書かない

詳しくは中将姫ゆかりの地「恋し野の里」への招待、中将姫旧跡保存委員会、発行の小冊子を読めば詳しく書かれている
(橋本市恋野公民館で読ませていただいた)
私の興味は雲雀山でありその伝説は今ひとつ分かりにくい
恋野地区のハイキング道をひたすら歩いた記事にしておきます
京奈和道が出来るまでは、和歌山から大峰や台高に行くために、時間短縮道は紀ノ川左岸の道をクネクネと、168号から洞川や吉野からR169向かった
その途中に恋野が有り、写真の看板を何時も見ながら走った

京奈和道からR24を越え恋野橋を渡れば左岸側に写真の看板が出る
下調べから、恋野公民館に向かった
冒頭にお礼を書いておこう。貴重な資料やコーヒーまで頂、芋生会長を迎えに行って下さる行為を受けた
公共施設でこれほどの丁寧な接待を受けた事は無い
中将姫伝説に力が入っている事は素晴らしいと感じた
会長からその話を聞き、主だった中将倉と糸の懸橋を車で案内を頂いた。
感謝だ
会長を家に送り、先ずコンビニで昼食を買い、公民館前で食べようとしたが、職員さんは涼しい中で食べなさいと、案内して下さる
親切な橋本市職員、キット大きな町に発展してゆくだろう

恋野小学校前の交番横の、営業をやめた農協前に駐車して、交番横の民家横から糸の懸橋を渡る
橋横にアシュク如来の祠、渡れば地蔵堂の祠が出る
急坂を登りきれば雲雀山(太刀捨て山)の起こりと文殊菩薩祠、雲雀山石標が出る
 
去年川(こぞかわ)大橋右岸を糸の細道へと入る。
入り口に歌碑が有り、細い小道を登る。
 
入ってゆけば細い道に成り、夏場は歩く人もいないようで、草が腰を越え杖でクモの巣を払い歩いたが、ショウタン的には快適だ
 
雲雀山は柿畑に成り、山の姿は無いが、開発以前は雑木の山だったとか

見晴らしが出れば、金剛山や和泉葛城、遠くに奈良の音羽の山々が霞む

公民館前を歩き、浮御堂に向かう
 
浮御堂から、稲荷山に向かった

 
稲荷山↑
 
山頂には祠が有り、山は桜の名所らしい
車で山頂に行くことも出来るが。小さな山だ歩いても直ぐだ
山頂からの遠景は素晴らしい
小さな祠に手を合わせ、整備道を下る
 
直ぐに広場が出て更に整備道を下れば墓地が出る
どうやらハイキング看板は山頂に向かって表示があるが、下山方向に無い
墓地で??と悩むが、先ず細い道側に下った。
右手に小池が出て、左手に民家、更に下れば小池の横に出た
そこに、中将倉500mの道標が、アララ、方向が違った(Dの位置に出た)

シマッタと登り返す
墓地から南に整備道を下ると中将倉前に下る
道は良く下山口には東屋は有るが、薄暗く休憩する気になれなかった
 
車道の正面の去年川正面の岩壁右手に洞窟があり、そこを中将倉と言う
ショウタン的にはそこに登るか懸垂で下降してみたい
八畳程度の広い空間があるといい。庵があったが今は無い。近く再建するという
 
水も飲まず休憩も無く歩いた。
ソロソロ休めと雷さんが怒りだし、ゴロゴロピカピカ、何も無い車道で濡れを覚悟したが、アラ、一軒の石材屋さんが
軒下を借りて休息だ。
一気に飲んだ水はまるで泡茶、これがたまらず何時も水を我慢するが、いけないねー
直ぐに雨はやんだがまるでボルネオで経験したスコールのようだ
半端じゃない雨がすごい

雨を通りすごし後500mを糸の懸橋まで楽しく歩いた

橋本市民話から

姫は天平19年(747)、当時の権力者、藤原豊成の娘に生まれました。しかし、5歳のときに母親を病気で失い、父親は照夜を後添いとしました。姫は成長するとともに容姿が美しくなり、英知にも富んでいたことから、継母である照夜から嫉妬されるようになったのです。
ついには命さえも狙われ何度となく殺されかけますがかろうじて助かり、一度は姫を殺そうとした家来が雲雀山の里に身を隠して育てます。姫は仏に仕えましたが、奈良の都や亡き母を恋し続けたのでした。橋本市恋野地区の地名は、ここから生まれたと伝えられています。後に奈良の当麻寺に移り、蓮の茎の糸で曼陀羅(国宝)を織り、阿弥陀如来の生まれ変わりとして信仰されています。橋本市には姫の命を守るために「昨年に姫は亡くなった」と報告した「去年川」、この川に姫が架けたとされる「糸の懸橋」があります。姫が身を潜めたと言われる洞窟、「中将倉」もあり、逸話も伝えられています。それは姫の父親である豊成が、藤原氏の狩場になっていたこの里へ狩りに来たことがきっかけです。
山道で迷った豊成は、この洞窟(倉)で読誦しているやせ細った姫と出会いました。最初は親子であることに気づかなかった二人ですが、やがて娘の目が涙でかすみ「お父様」と豊成の懐へ。思いもかけない再会に、豊成も涙に泣き濡れたと伝えられています


和歌山の民話から

今から千二百八十年ほど前の奈良時代、長谷(はせ)観音の授け子として、右大臣(うだいじん)藤原豊成公(ふじわらのとよなりこう)の娘が奈良の都で生まれた。姫は、両親によって大事に育てられていた。しかし五歳のとき、母の紫の前が亡くなり、毎日寂しい日を送っていた。翌年には照夜(てるよ)の前という新しい母を迎え、豊寿丸(ほうじゅまる)という弟が生まれた。姫は生まれつき賢く、和歌などをたしなんだので、九歳のとき天皇から中将(ちゅうじょう)の位(くらい)を授かった。父は大変喜んだが、照夜の前からつらく当たられるようになった。姫が十四歳のとき、豊成公(とよなりこう)が留守の間に、照夜の前は姫を殺そうと企んだ。殺すように命を受けた嘉藤太(かとうた)は、父を迎えに行こうと嘘をついて姫を誘い出し、奈良の都を出た。しばらくして大和と紀伊の国境近くにある雲雀山(ひばりやま)まできたが、どうしても殺すことができず、姫を雲雀山に残して都に帰った。そして「姫を殺してきました」と照夜の前に報告した。
雲雀山に取り残された姫は、母の供養のために念仏を唱える日々を過ごしていたが、あるとき近くの山に登り、大きな松の木の傍で手を振った。すると姫の指先から五色の糸が出て松の枝に掛かり、美しい布が織り出されていた。やがて布は空の彼方に飛んでいった。いっぽう都では、帰ってきた豊成公に照夜の前は「お父様を迎えに行くといって出たままもどってこないのです」と嘘をついていた。
あるとき豊成公は狩に出かけ、雲雀山の近くまで来て道に迷ってしまった。野山をさ迷っていると、谷間に小さな明かりを見つけた。その火を頼りに近づいて行くと、家の中から念仏の声がする。声をかけると人が出てきたが、その顔を見て驚いた。なんと我が子の中将姫ではないか。豊成公は中将姫を連れて帰り、都で仲良く暮らした。その後中将姫は当麻寺(たいまでら)で出家して、当麻曼荼羅(たいままんだら)を織り上げ、二九歳で極楽浄土へ行ったという。

有田市得生寺から

中将姫の寺」として有名で、本堂、開山堂、庫裡、鐘堂、宝物庫などがあります。天平19年(747)に右大臣藤原豊成の娘として、生まれた姫が13才のとき継母のため奈良の都から糸我の雲雀山に捨てられ、3年の間に称賛浄土経一千巻を書写したと伝えられています。また、姫の従臣伊藤春時(剃髪して得生という)が姫を養育した所に草庵を結び、安養院と号したのが始めといわれます。

 承平(931〜7)の頃得生寺と改め、享徳(1452〜4)の頃浄土宗となりました。そして、文亀(1501〜3)の頃山から里へとこの寺を高井の後の的場に移し、永禄10年(1567)に宮城(代)に移し、寛永5年(1628)に今の蓮坪に移りました。境内に桜・ツツジが多くて風致がよく、毎年5月14日の会式には近在からの参詣者で賑わいます。会式の際に行われる二十五菩薩の渡御は、昭和43年に県の無形文化財に指定されています。

 寺には中将姫の作という蓮糸縫三尊、中将姫の筆という紺地金泥三部経及び称賛浄土経のほか、国の重要美術品に認定された絹本着色の当麻曼陀羅図などがあり、開山堂には中将姫及び春時夫妻の座像が安置されています。これは永禄元年(1558)に大和の当麻寺から贈られたものです。境内には昭和47年に建てた万葉歌碑があります。


中将姫ゆかりの地「恋し野の里」への招待 小冊子から
恋し野の里、中将姫略縁起

中将姫は従一位右大臣横佩の朝臣藤原豊成の息女で、祖父は五条市栄山寺に墓碑の有る藤原智麻呂(藤原鎌足の孫)、母は品沢親王の息女で紫の前と言う。
初瀬の初瀬観音に祈願して誕生したのが中将姫で、時に天平19年(747年)8月18日日の出前。
4歳のとき称讃浄土仏摂受経を学び、5才の時、母は病床に伏し死別する。
7才の時、父は、橘諸兄の息女、照代の前を後妻とす。8歳の桃の節句に宮中宴会あり、姫は琴の役、照代の前は笙の役を務めたが、この時継母は不覚を取る。
義弟の豊寿丸も誕生し、一方姫は成長するにつれて容姿端麗で英知に富何事にも優れていたので帝から中将の位を賜る。
このころから継母は次第に憎むようになり、無きものにと姫殺害の謀計を立て、家臣の山下藤内戴則に実行さすも、息子小次郎則重が姫の身代わりと成り助けられた。
その後、地獄谷に捨てられた時や竜田川の難も共に救われいる。
10才の時、毒甘酒による難も杯を取り違えた豊寿丸が死亡し姫は助かっている。
14才の春、継母は謀計を捨てがたく、父豊成が諸国巡視の留守中に、松井嘉藤太に命じて、大和と紀伊の境にある雲雀山に誘き出し殺害させようとするが、嘉藤太は慈悲の心が甦り罪もない姫を殺すことが出来ず太刀を捨て(故に雲雀山を一名太刀捨て山とも言う)姫を残し一旦都に帰り、妻お松と共に「恋し野の里」の雲雀山に戻り、これより十三仏に守られつつ、2年3ヶ月間、この地で姫を育て、聞くも悲しい生活に耐えたと云われ、その旧跡が「恋し野の里」に数多く残されている。
15才の時、嘉藤太が死亡し、16才の時、父豊成が猟に来て姫と涙の再会を果たし、温情に優里人達と別れを惜しみつつ都に帰り、17才に当麻寺で剃髪して法如比丘尼となり、かの有名な蓮糸曼荼羅織り上げたが、宝亀6年(775・・・弘法大使誕生の翌年)卯月14日、25菩薩に迎えられ29歳を一期として波乱であったが清らかで英知に満ちた生涯を閉じた

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