紀泉高原忘れられた道
箱作からの参道を探して
2017/09/13
単独

足の変形からどうしても靴が合わず今回はモンベルの靴の幅だしを三回もお願いした靴を試しに紀泉高原を歩いた

通常参道の墓の谷林道に入る手前の牛神様までバイクで乗りつけた
紀泉高原の南斜面やめぼしい斜面を大ソーラー発電を作ろうと魔の手が伸び、今まで痛むに任せていた墓の谷林道も測量資材を運ぶ部分のみが整備されていた。
 
何時まで緑豊かな紀泉高原を歩けることができるだろうか
オマケに、今まで来たことも無い環境何とかの会社も来て、山の鳥だろうか?生態を調べていた
    
途中で出会った人が曰くに、林道墓の谷線下に見える石積みは民家跡だとか
ズート耕作地跡だと思っていた私だが、古い歴史の墓の谷行者堂、今は参詣者も少なくハイカーや健康歩きの方達が目だつ
墓の谷行者堂裏から青少年の森に登る。このコースが一番のメーンコースだったが、今はさびれコースは傷むに任せている感じだ
  
道成りに登れば、紀伊駅や六十谷駅への尾根縦走路に出る
尾根縦走路は今でも人気のコースだ
登ってゆけば、六角堂東屋が出て、さらに登れば青少年の森展望広場が出る
  
  
雲山峰に向かえば、向こうから友人GPが来た
引き返し、青少年広場で友人のGPと昼食を楽しむ、その又友人達が来て山は賑やかだ。
 
一時間程度の休憩で別れ、私は井関峠に向かう
途中の急坂の道を下った。
急坂の道を下りきりほんの少し先から、モウ忘れ去られたような、箱作方面からの参道があったと言う谷に下ろうと下った
最初の100mばかしの一曲がり程度はその後が感じられたが、谷まで下ると、道跡などはまるで無い
谷中を、何かの目印が無いかと探りながら下って行ったが、ゴロ石帯や沢の中のを歩くのみ
ただ、一巻きのテープと、切り株に石が置かれたものが一つ目だった
目印の桜 右手に下る

谷の様子
  
  
小さな谷だ。
目を凝らすが、道跡は感じない
足下注意で蜘蛛の巣を掃いながら、我ながらあきれた探索だが、人が通れば道が残り、人が通れば道が出来る。私の持論が証明されたようになっている。
 
後すこしで、現在のハイキング道に出会うところで、ここに道があったと言う証明の道標跡がある
今は、雲山峰と加筆され元の文字は完全に消え、矢印方面が谷だったことのみ道が有った証明が残る
沢を渡って、東鳥取林道に出て、井関峠にと林道を登る
  
井関峠に、咲き遅れたヒオウギが一輪咲き、秋の匂いのマンジュシャゲが一輪咲いていた
通常は彼岸花と呼ぶほうが多いが私は、じゃがたらお春の長崎物語が好きでマンジュシャゲと書きたい

藤圭子森昌子谷 真酉美 の歌声を聞いてみてください

じゃがたらお春を知って聞けば本当に良い歌ですよね

赤い花なら 曼珠沙華
  阿蘭陀屋敷に 雨が降る
  濡れて泣いてる じゃがたらお春
  未練な出船の あゝ鐘が鳴る
  ララ鐘が鳴る

何せ有名なのは山口百恵の曼珠沙華、又別の意味で聞いていて悲しい

 
井関峠から井関橋に下る道を、ろくろ坂というが、名前が嫌なのか、道標は何時も取り払われる
変わりに、大福の名水と名づけた湧き水は人気が有るようだ
  
途中で見たことが無い花が一輪咲いていた
花先生宅に写真を見せれば、ピンボケの花を見てツルボだと即答して下さる


開発の手から絶滅危惧種や動物達が追い払われるか、一度はゴルフ場という開発から逃れた紀泉高原西部の山々
今度は、発電と言うソーラーパネルの魔の手から逃れられるか
市民運動の成果が問われる。
甲子園球場何十個、此方の斜面もあちらの斜面もと悲しい話を聞く
しばらくは、私も紀泉高原を歩きその素晴らしさの発信を続けたい
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