子の泊山その伝説遺跡

子の泊山その伝説と遺跡

子の泊山とは蔵光山のことであり、その由来については諸説あるが、ここでは戦いの伝説と歴史的な文献および遺跡、(塚等)を総合的に勘案して、一つの結論を提起するものである
それは平安時代末期、平家政権の崩壊から鎌倉幕府成立の過程に求めることが出来る。
文治元年(一一八五)三月源平の戦いに勝利した義経がその後兄頼朝との対決にいたり、追討され都を追われるのであるが、その義経の郎党の戦いがこの蔵光山で行われたと言う物である
義経郎党には義経の叔父新宮十郎行家が源平の戦いに出陣するにおいて、熊野の衆徒を引き連れており、弁慶を始めとする熊野宗徒が義経の郎党になっているものである
つまり、熊野関係の義経郎党は本来、行家の朗徒であり、そのもの達が頼朝の軍勢と戦ったことになる
これを蔵光山の戦いという。常 ”子の泊りとは”新宮から北方の場所(蔵光山)に熊野の武者が葬られていることをさす
一、 戦いの伝説とその背景

◎ 源流を蔵光山とする那智郷川が血で染まったという伝説

これが地元での戦いの伝説である。しかし、これが義経郎党の戦いであるとは検証されていない。となれば、どこからこれが導き出されたのであろうか。先ず、考えたのはこの地の歴史から、源平の戦いに焦点を合わせたのである。つまり、源平合戦を縦軸に源義経、及び叔父の新宮十郎行家を横軸として交差させる事により、この戦いが現実味を帯びてきたのである。常、この件については「実像弁慶」を参照されたい、。それに加えて、この那智郷川であるが、那智から遠く離れた山里の川に、何故那智の名が付いてのだろうか。果たせるかな、それを伺わせる文献がある。治承四年四月、新宮において平家追討の密議が漏洩したことから、田辺の湛増が新宮をせめる時の状況にそれが記されている
平家物語

新宮には、鳥居の法眼、高坊の法眼、侍には宇井、鈴木、水屋、亀甲、那智には執行法眼、都合その勢二千余人なり。
この平家追討において、源氏方熊野衆徒に那智勢が含まれていたことがこれで分かる。そして、この蔵光山の戦いにも那智の衆徒が含まれていたからであろう。
この川を那智郷川としたのではあるまいか。田辺の湛増は本来平家方であったが、後平家から離反し、蔵光山では頼朝側だったことが推測出来る

熊野蔵光山における義経郎党

義経には一九人の郎党が伝えられているが、この蔵光三の戦いには次のような人物が考えられる

武蔵坊弁慶、亀井六郎、赤井藤太、御厨喜三太、であろうか

としたのは、その他熊野関係の義経郎党はそれぞれの状況に成っている

伊勢三郎 京で斬首  「玉葉」

駿河次郎 京で斬首  「玉葉」

熊野太郎 堀川夜討ちで討ち死にか?  「源平盛衰記」

鈴木三郎 藤白に帰還か?   書状

常陸坊海尊 京から逃げ延びるか? 「義経記」

以上が伝説から導き出した背景である。その伝説をその伝説を裏付ける遺跡が存在する。

◎ 蔵光山には戦いを連想させる塚(七五人塚、鉄甲塚、蔵光塚)が見られておりそれが子の泊りの所以であろう

◎ さらに蔵光山麓(奥野々)に弁慶の塚として伝えられる物があり、その供養は二月二三日となっている。

◎ これに付随して、熊野三党の鈴木屋敷跡が弁慶の産家として伝えられており、同じく赤井蔵光の屋敷(義経郎党赤井藤太及び子孫の事か?)跡がある   
戦いの文献

この戦いを直接伝えた文献は存在していない。しかし、義経、行家及びその郎党の追討について頼朝の要請により宣旨(天皇の命)が出されている。
これによりこの戦いが推測できる。それは天皇の命令まで出されたのである、いい加減な残党狩りでは済まされないだろう、次のごとくである
宣旨

前備前守・前伊豫守義経等、肝心日積もり、暴虐露見し登城の外に逐はれ、山沢に亡命す。

隠居の所はほぼその聞こえあり。

よろしく熊野、金峰山及び大和、河内、伊賀、阿波等の国司に仰せて、確かに所在を探し求め、その身を搦め進ぜしべし

文治二年二月二三日

     蔵人頭左中弁  藤原光永
ここでこの戦いの状況とその日付を推測してみよう。全段で弁慶の命日とされる二月二三日が戦いの日であったとすれば、戦いはこの宣旨(二月三〇日)の数日前に行われた事になり辻褄が合わない事になる
そうであろうか。
実際は追討の宣旨を各国司宛に通達する前に戦いが行われていたとする物である。
その理由として、この宣旨には次のような文面になっているからである

・・・・・義経等、都城の外に逐はれ、山沢に亡命す。 隠居の所ほぼその聞こえあり。

とあって、すでに宣旨が発行される前に、隠居の所ほぼその聞こえ有りの如く熊野衆徒の隠れ情報が伝えられていたとする解釈するので有るが如何だろうか。
戦いは文治二年二月二三日とするものである
では、頼朝の軍勢とは一体どのような者達であろうか。常識的には宣旨の遂行者とされるのは、頼朝側についた熊野別当湛増以外に考えられない。つまり、弁慶の父とされる田辺の湛増が義経郎党(実は行家朗従)を打った事になる
しかし、皮肉な者である。これを指揮したであろう湛増に対しうたぐりぶかい頼朝は義経を討った藤原康衛と同様の感情を示している
「吾妻鏡」文治三年九月二十日

熊の別当法印湛増が使者(永禅)関東に参着す・・・・・
巻数に相添え綾三十端を献ず。これは甚だ御意に背くと伝々・・・・何事を酬いんがため、却って進物に及ぶべけんや。
・・・・・領内の儀あるべからずてへれば、即ち使者に返し下さると伝々。

いかなる理由か。頼朝は湛増からの進物を受け取らなかったのである。
それは鎌倉から遠く離れた田辺からの進物であるにもかかわらずである。頼朝の訳の分からない態度からして湛増への悪感情があったのであろう
             戦いの遺跡

蔵光山には数多くの遺跡があり、どれも古い歴史となっている。少なくとも弁慶産家と赤井蔵光の屋敷跡は確認されており、これらの戦いは義経郎党として推測できるのである。
さらに、それぞれ石積した痕跡は武者を葬った塚として見ることが出来る

戻る